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メモ帳がわりに使っています。

Sep 23
“寂しいは無能
「寂しさ」とは何か?
word「寂しさ」の本体は何か?
その答えはもちろん、言葉の常として、時代ごと場所ごとに移り変わってゆくものですが、現代のWebに限定して言えば答えは一つ。word「無能感」です。wordの皮をかぶれるのはwordだけです。
私の心眼によれば、日本人の経済的センスは世界一でした。日本人の友達選び恋人選びの基準は、数世紀も前から以下の通りです。
金をくれる(Yes/No)
物をくれる(Yes/No)
情報をくれる(Yes/No)
友達が侮辱されたら(安い値をつけられたら)、侮辱した奴の市場価値を即刻SATUGAIしてくれる(Yes/No)
つまり、経済的に有能な人間、有能となりうる人間は、周りがほっておきません。逆に言うと、現在ノーマークな人間は無能であり、生涯うだつは上がりません。怠惰な人間の陥りがちな世界観がそのまま事実でもあったのが日本の交友空間です。
さらに、私の心眼に則して言えば、上記のジャパニーズ・スタンダードは今やグローバルなスタンダードであり(だから今の日本はあんまり世界一でもありません)、Webはどこもかしこも「無能は自己責任」の世界です。
お店屋さんがごっこであり、ごっこがお店屋さんの本質であったことは、私の心眼によるとWebが証明しました。
天下万民チンドン屋にならんとする昨今のWebで感じる「寂しさ」は、山奥で一人感じる「寂しさ」とはまったく違うものです。それは、原理上誰でもアクセスできる場所での発言、誰かは知っているはずの単語のみで組み立てた発言が誰にもふぁぼられなかったという徒労感に由来する「寂しさ」です。
劈掛掌と八極拳の格言にならって言うなら、「徒労感で入って無能感で仕留める」、これがWebの駆使する「寂しさ」です。
「寂しさ」とは「無能感」であり、「寂しい」と発言するのは、自らの無能を宣言しているに等しいのです。それは、自らの市場価値にとどめを刺す行為です。「寂しい……」「寂しくないよ!」「俺達を忘れてもらっちゃ困るぜ!」という茶番を期待できない立場の人間は、けっして寂しさを表明してはいけません。何かしら根拠を見つけて自信を自己責任してください。
釈迦はなぜ強いのか?
私の心眼で思いだしてください。
釈迦というbloggerはなぜ最強でしたか?
その秘密はデスメタルです。
釈迦以外のあらゆる者が、先の見えない輪廻の渦中にいた古代インドにおいて、釈迦が信じたのはただ一つの真理、「生きとし生けるものは死ぬ」というシンプルなトートロジーだけでした。釈迦は全てのblogをそこから始めました。
釈迦と対峙したバラモンは、さぞや困惑したことでしょう。
こちらがヴェーダを典拠に高度な議論を仕掛けているのに、相手はどこの馬の骨とも知れない無名の頭蓋骨を抱きながら「このオジチャンの言うことはよくわかりまちぇんね~」と腹話術よろしくデス人形劇にバラモンを巻き込んで信徒を集めるのです。釈迦最悪。釈迦最悪。できあがった人間というのは、つまるところこのようなものです。
「意識された最初の死」から紀元前六世紀までの間に積み上げられた十億の死体に誓って、釈迦は最強です。世界の底に死体を置いた者は最強です。釈迦ほど自信に満ちたbloggerを、私の心眼は知りません。
寂しい人は、釈迦になったつもりでがんばってみるのがよろしいんじゃないでしょうか。ソースは心眼。
四門出撃とは?
市場価値と南無阿弥陀仏の関係について専ら攻めている私の心眼的には、釈迦よりもちょっと西方の人が好感度INです。
英雄王ギルガメッシュ。
彼もまた、寂しさを埋めるロールモデルというロザリオになりえます。
釈迦と同じく「都市国家の王族」だったギルガメッシュは、釈迦と同じく死体に啓発されて旅に出ます。
しかしその旅の目的は、「「歴史に名を刻むオレ」を作り上げる! 有名王に俺はなる! とりあえず今のウルクでは杉の木が市場価値ONなのでフンババ殺す!」というたいへん厄いものでした。
ニーズに応えてこその英雄なのでやむをえない事ではありますが、全ての厄さが伏線として機能する古代神話のお約束通り、ギルガメッシュの後半生は「死すべき人間のブザマ」を凝縮して演じているかのように無惨なものとなります。
しかしそれでも彼は、己の「名」に執着することをやめず、エクスデスとは違う道で、死への恐怖を乗り越えたのです。
ていうかメンドくさくなってきたのでおしまい。
俺は生きていてもいいんでしょうか?
その答えは市場が決めます。
十億年ファック。”
http://d.hatena.ne.jp/nand/20100704/p1 (via matakimika)